敦盛



敦盛の段は、平家物語の中でも、特に拙者が好む部分の一つで御座います。
故に、差し出がましくも、『平家』を読んだ事の無い方が、興味を抱くきっかけにでもなれば思い、現代語訳してみようと思い立った次第で御座います。

平家平家となんとかの一つ覚えの如く連呼している拙者で御座いますが、実のところ平家物語そのものを読んだのは、歴史マンガでダイジェスト的に読んだのと、小学生の頃に読んだ矢張りエピソード抜粋型のもので御座います。
また、現在手元にある資料も、学習用資料の、高名な段の原文のみ。
裏を返せば、それしか読んでいないにもかかわらず、子供心に深い印象と興味を与得るに充分な物であったと云う事とも思えます。(当時より子供としては特殊な部類にはいっていたらしいロウスの事を考慮しつつも)(多分)
まあ、訳した人がロウスでありますゆえ、何処まで正しいかあやしいところで御座いまするが、原文の雰囲気を壊さぬよう、自分なり気を付かって訳したつもりで御座います。あんまり直訳そのもの、ではありません。
という訳で、知らぬ方にも、読んでいただけましたら惟幸。





敦盛最期


いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実(くまがへのじらうなほざね)、
一の谷の戦いは、平家の敗北と勝敗決し、熊谷次郎直実は

「平家の公達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給ふらむ。あつぱれ、よからう大将軍にくまばや」
「平家の公達は舟に乗ろうと、渚の方へ落ち行くであろう。嗚呼、よい大将軍と組みたいものよ」

とて、磯の方へあゆまするところに、練貫(ねりぬき)に鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧着て、鍬形(くわがた)うつたる甲の緒をしめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげどう)の弓もつて、 連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に黄覆輪(きんぶくりん)の鞍おいて乗つたる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざつとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷、
そう思いつつ、渚の方へと馬進めれば。練貫に鶴を繍した直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形に打った甲の緒をしめ、黄金作りの太刀を佩き、二十四本切斑の矢負い、滋藤の弓をもって、 連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて乗ったる一騎の武者が、沖の船へと目を掛けて、馬を海へとざっと乗り入れ、五六段ほども泳がせて居る。熊谷扇をぱっと広げて、

「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見させ給ふものかな。かへさせ給へ」
「そこなるは大将軍とお見受け致します。大将軍ともあろうお方が、見苦しくも敵に後ろを御見せになるものなのですか。返させ給え」

と扇をあげてまねきければ、招かれてとつてかへす。
と、その扇にて招いたので、其の武者招かれて、馬首を返して引き返す。

汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうとおち、とつておさへて頸をかかんと甲をおしあふのけてみれば、年十六七ばかりなるが、薄化粧してかね黒なり。 我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
武者が水際に上がろうとする所を、波打ち際にて、馬を並べて、むんずと組んで、どうと落ち、取って押さえて首を掻こうと、兜を押し上げる。見れば薄化粧をしてお歯黒を付けた、我が子小次郎と同じ位の年頃と思われる、十六七歳の美少年であった。何処に刀を立てようとも思えない。

「抑(そもそも)いかなる人にてましまし候ぞ。名乗らせ給へ。たすけ参らせん」
「そもそも貴方は、どういった人であらせられるのですか。名を御教えください。御助け致します」

と申せば
と、熊谷が申せば、

「汝はたそ」
「貴殿は誰だ」

と問い給ふ。
と、問い返される。

「物その者で候はねども、武蔵国住人(むさしのくにのじゅうにん)、熊谷次郎直実」
「物の数に入るような者では御座いませんが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」

と名乗り申す。
と名乗る。

「さては、汝にあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」
「それでは貴殿には名乗るまい。私は貴殿のためには、良い敵だろう。首を取って人に問え。知っている者があろう」

とぞ宣ひける。
と云われる。

「あつぱれ、大将軍や。此人一人うち奉つたりとも、まくべきいくさに勝つべきやうもなし。又うち奉らずとも、勝つべきいくさにまくる事よもあらじ。 小次郎がうす手を負うたるだに、直実は心苦しうこそ思ふに、此殿の父、うたれぬと聞いて、いか計(ばかり)か嘆き給はんずらん。あはれ助たすけ奉らばや。」
「嗚呼、それでこそ良い将だ。この人一人討ったところで、負ける戦に勝つはずもなし。討たぬところで、勝つべき戦に負くはずもない。 小次郎が、今朝の一の谷の戦いで薄手を負った事ですら、胸が痛むというのに。この人が討たれたと聞いたら、この方の父君は、どれほど嘆き悲しまれる事であろう。嗚呼、御助けせねば。」

と思ひて、うしろをきつと見ければ、土肥(どひ)、梶原(かじわら)五十騎ばかりでつづいたり。
そう思って、きっと後ろを振り返って見れば、土肥、梶原が、五十騎ばかり引き連れてくる。

熊谷涙をおさへて申しけるは、
熊谷もはや如何ともし難く、

「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方(みかた)の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめ」
「お助けしたいと思うのですが、雲霞のごとき味方の軍兵。もはや御逃げいただく事も叶わぬでしょう。同じ事ならば、人の手にかけさせるより、この直実が手にかけて、後世の供養を致しましょう。」

と申しければ、
と云うと、

「ただとくとく頸をとれ」
「云うには及ばぬ。疾く首を取れ。」

とぞの宣ける。
と云われた。

熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼへず。目もくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く頸をぞかいてんげる。
それでもどうしても、刀の立てようが無い。眩暈すらして暫し茫然としていたが、いつまでも躊躇っている訳にも行かず、泣く泣く首を掻き切った。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな。」
「嗚呼、弓矢を取る身ほど、情けの無いものはない。武士の家に生まれなければ、このような辛い目にもあわずとも済んだというのに。無情にも討ち取らせたものよ。」

とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。
と、袖を顔に当ててさめざめと泣いていた。


良(やや)久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて頸をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ腰にさされたる。
ややあって、そのまま泣いている訳にもいかず、鎧直垂を解いて首を包もうとすると、錦の袋に入れた笛が、腰に差してあるのを見つけた。

「あないとほし。この暁城のうちにて管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。当時みかたに東国勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」
「嗚呼、そうだったのか。この夜明けに城で笛の音が聞こえたのは、この人々であったのか。東国武者何万騎のうちに、軍陣に笛を持ってくる風雅な者などいるだろうか。公達故の、哀れさか・・・。」

とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人涙をながさずといふことなし。
と思って、大将の九郎御曹司義経の見参にいれたところ、それを見て涙せぬ者はなかった。

後に聞けば、修理大夫経盛(しゅうりのだいぶつねもり)の子息に大夫敦盛(だいぶあつもり)とて、生年十七にぞなられける。それよりして熊谷が発心の思ひはすすみけれ。
後に聞けば、修理大夫経盛の子息で大夫敦盛と云い、生年十七歳であった。熊谷に出家の念が起こったのは、其の時からである。

件の笛はおほぢ忠盛(ただもり)笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞきこえし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによつて、もたれたりけるとかや。名をば小枝(さえだ)とぞ申しける。狂言綺語(きぎょ)の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ。
くだんの笛は、祖父にあたる忠盛が笛の名手で、鳥羽院から賜ったものである。それを父の経盛が貰い受け、敦盛がまた名手であったため、持たせたのだと云う。名を、小枝と云った。 狂言綺語でさえも、讃仏乗の因となる。敦盛の一管の笛が、直実の出家の原因となったのも、無理なからぬ事である。




さて。男の化粧について。(笑)少々、敦盛の弁護をさせていただきたいと。(笑)
曰く、日本と言う文化圏にいる限り、ある程度の男の化粧は間違っていない!(笑)
・・・あの・・・オカマちゃんとかのはなしじゃなくってですね。一般的に。
そも、御公家さんなどは、当時薄化粧めずらしくありませんから。平らの敦盛も、公達ですから、無理なからぬ事でしょう。
江戸時代に至りますと、(江戸の街を対象とした話とはなりますが)もっとそれが一般化します。
江戸時代、其処は久しい平和の常か、だんだん益体も無い事に人々が走るものでありまして。事ファッション面での流行り廃りは、見ていて大変面白いものが有ります。
無論化粧についても、其の辺りの事で出てくる事では有りましょう。眉の形整えるのなんざ当りまえ。
顔には薄ら白粉と。月代部分には、うす青い色を塗ったりしたそうで。
奇抜な人だと、大変奇抜な事をしたそうでありますが。
女形でも、女装趣味と言う訳でもないのに、似合うからと言う理由で女装してた方なんぞもいるそうです。ええ、其処は一応、正常な趣味の方だそうですけれどもね。
当然多少は珍しいので、評判にはなったようですが。

ともあれ、昔の男というのはよう泣きますね。
漢泣きに泣きます。(さめざめ泣いているじゃないかというご指摘は受け付けません)
泣けるってスゲエ事だよな、と思うこの頃にて、そういうのがカッコよくおもわれます。
斯く云うロウスも、このシーンを読む度、泣けます。
かといって、泣けども情けないだけなのが自分だと、よう自覚してはおりますが。(痛)
でも、あれですよ?出師の表(突然三国志ネタ)を読んで泣かずば男じゃない!というじゃないですか!昔から!(江戸時代ごろから?)
や・・・いいです。何か自己弁護臭くなってきたし。(逃)




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