敦盛最期
いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実(くまがへのじらうなほざね)、
一の谷の戦いは、平家の敗北と勝敗決し、熊谷次郎直実は
「平家の公達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給ふらむ。あつぱれ、よからう大将軍にくまばや」
「平家の公達は舟に乗ろうと、渚の方へ落ち行くであろう。嗚呼、よい大将軍と組みたいものよ」
とて、磯の方へあゆまするところに、練貫(ねりぬき)に鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧着て、鍬形(くわがた)うつたる甲の緒をしめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげどう)の弓もつて、
連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に黄覆輪(きんぶくりん)の鞍おいて乗つたる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざつとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷、
そう思いつつ、渚の方へと馬進めれば。練貫に鶴を繍した直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形に打った甲の緒をしめ、黄金作りの太刀を佩き、二十四本切斑の矢負い、滋藤の弓をもって、
連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて乗ったる一騎の武者が、沖の船へと目を掛けて、馬を海へとざっと乗り入れ、五六段ほども泳がせて居る。熊谷扇をぱっと広げて、
「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見させ給ふものかな。かへさせ給へ」
「そこなるは大将軍とお見受け致します。大将軍ともあろうお方が、見苦しくも敵に後ろを御見せになるものなのですか。返させ給え」
と扇をあげてまねきければ、招かれてとつてかへす。
と、その扇にて招いたので、其の武者招かれて、馬首を返して引き返す。
汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうとおち、とつておさへて頸をかかんと甲をおしあふのけてみれば、年十六七ばかりなるが、薄化粧してかね黒なり。
我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
武者が水際に上がろうとする所を、波打ち際にて、馬を並べて、むんずと組んで、どうと落ち、取って押さえて首を掻こうと、兜を押し上げる。見れば薄化粧をしてお歯黒を付けた、我が子小次郎と同じ位の年頃と思われる、十六七歳の美少年であった。何処に刀を立てようとも思えない。
「抑(そもそも)いかなる人にてましまし候ぞ。名乗らせ給へ。たすけ参らせん」
「そもそも貴方は、どういった人であらせられるのですか。名を御教えください。御助け致します」
と申せば
と、熊谷が申せば、
「汝はたそ」
「貴殿は誰だ」
と問い給ふ。
と、問い返される。
「物その者で候はねども、武蔵国住人(むさしのくにのじゅうにん)、熊谷次郎直実」
「物の数に入るような者では御座いませんが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」
と名乗り申す。
と名乗る。
「さては、汝にあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」
「それでは貴殿には名乗るまい。私は貴殿のためには、良い敵だろう。首を取って人に問え。知っている者があろう」
とぞ宣ひける。
と云われる。
「あつぱれ、大将軍や。此人一人うち奉つたりとも、まくべきいくさに勝つべきやうもなし。又うち奉らずとも、勝つべきいくさにまくる事よもあらじ。
小次郎がうす手を負うたるだに、直実は心苦しうこそ思ふに、此殿の父、うたれぬと聞いて、いか計(ばかり)か嘆き給はんずらん。あはれ助たすけ奉らばや。」
「嗚呼、それでこそ良い将だ。この人一人討ったところで、負ける戦に勝つはずもなし。討たぬところで、勝つべき戦に負くはずもない。
小次郎が、今朝の一の谷の戦いで薄手を負った事ですら、胸が痛むというのに。この人が討たれたと聞いたら、この方の父君は、どれほど嘆き悲しまれる事であろう。嗚呼、御助けせねば。」
と思ひて、うしろをきつと見ければ、土肥(どひ)、梶原(かじわら)五十騎ばかりでつづいたり。
そう思って、きっと後ろを振り返って見れば、土肥、梶原が、五十騎ばかり引き連れてくる。
熊谷涙をおさへて申しけるは、
熊谷もはや如何ともし難く、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方(みかた)の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめ」
「お助けしたいと思うのですが、雲霞のごとき味方の軍兵。もはや御逃げいただく事も叶わぬでしょう。同じ事ならば、人の手にかけさせるより、この直実が手にかけて、後世の供養を致しましょう。」
と申しければ、
と云うと、
「ただとくとく頸をとれ」
「云うには及ばぬ。疾く首を取れ。」
とぞの宣ける。
と云われた。
熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼへず。目もくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く頸をぞかいてんげる。
それでもどうしても、刀の立てようが無い。眩暈すらして暫し茫然としていたが、いつまでも躊躇っている訳にも行かず、泣く泣く首を掻き切った。
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな。」
「嗚呼、弓矢を取る身ほど、情けの無いものはない。武士の家に生まれなければ、このような辛い目にもあわずとも済んだというのに。無情にも討ち取らせたものよ。」
とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。
と、袖を顔に当ててさめざめと泣いていた。
良(やや)久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて頸をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ腰にさされたる。
ややあって、そのまま泣いている訳にもいかず、鎧直垂を解いて首を包もうとすると、錦の袋に入れた笛が、腰に差してあるのを見つけた。
「あないとほし。この暁城のうちにて管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。当時みかたに東国勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」
「嗚呼、そうだったのか。この夜明けに城で笛の音が聞こえたのは、この人々であったのか。東国武者何万騎のうちに、軍陣に笛を持ってくる風雅な者などいるだろうか。公達故の、哀れさか・・・。」
とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人涙をながさずといふことなし。
と思って、大将の九郎御曹司義経の見参にいれたところ、それを見て涙せぬ者はなかった。
後に聞けば、修理大夫経盛(しゅうりのだいぶつねもり)の子息に大夫敦盛(だいぶあつもり)とて、生年十七にぞなられける。それよりして熊谷が発心の思ひはすすみけれ。
後に聞けば、修理大夫経盛の子息で大夫敦盛と云い、生年十七歳であった。熊谷に出家の念が起こったのは、其の時からである。
件の笛はおほぢ忠盛(ただもり)笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞきこえし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによつて、もたれたりけるとかや。名をば小枝(さえだ)とぞ申しける。狂言綺語(きぎょ)の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ。
くだんの笛は、祖父にあたる忠盛が笛の名手で、鳥羽院から賜ったものである。それを父の経盛が貰い受け、敦盛がまた名手であったため、持たせたのだと云う。名を、小枝と云った。
狂言綺語でさえも、讃仏乗の因となる。敦盛の一管の笛が、直実の出家の原因となったのも、無理なからぬ事である。
|